短歌、鹿児島徳治先生 前編・後編

目次に戻る

 Ⅰー1                                                                                 

* 本稿は公立K高等学校「紀要」、平成11,12年度掲載の論考(前編と後編・書式は縦書き)に執筆者自身が加筆・訂正を施したものである。ただし従前(縦書き)の漢数字は未修正のままにしてある。また、文中の紺色文字は注目のためであり、他とのリンクは行われない。

                    歌系は赤彦 

 鹿児島徳治先生のうたを読む・前編

 
  この六月に図書室の整理が行われた際に、司書のNさんに教えられ、本校の校名と同じ『葛飾野』という気になる題の歌集を手にした。この時のNさんも私も異動してきた直後で、作者のことは何も知らなかった。
 その本は
きっちりと箱に収められた四六版の上製本で、手にしてみると、表紙にかけられたハトロン紙に皺ひとつなく、全く新品の状態であった。
 表紙を開くと、作者白身からの寄贈本であることが毛筆で書かれ、また本校の校門脇に据えられた校名由来碑が内表紙のすぐ後に写真版にして載せてあった。
 このようにして私は、この学校に「三十六年間」(ただし、この本の奥付に従う)を勤めあげ、たくさんの短歌を詠み残して行かれた先輩がいたことを知ったのだった。
 同僚ではあるわけだが、本稿では「先生」と敬称をつけて呼ばせていただく。

      *    *    *

 「あとがき」にはその冒頭『これは私の第六冊目の歌集であります』とあり、また本文を開くと1ページに六首が組まれ、ずいぶんたくさんの歌を詠むひとのような印象を受けた。
 また、とりあえず一部を読んで、この人の平易な詠みぶりを感じたことについては「歌系はアララギのリアリズム短歌で赤彦系であります」とあった。歌系は赤彦島木赤彦と旗幟鮮明に名乗り出ているところから、歌へのこころざしや人柄が察せられて好感が持てた。

 初めの方(昭和六十一年の作品群)の連作に『変り行くふるさと』がある。〔抜粋〕
 
・ 越後平野は疾く様変り稲田には案山子も鳴子も見ることはなし

・ 町となりそれぞれに持ちし荼毘所いま用なくなりて砂利置場となる
 
 
・ 廃れたる茶毘所に残る御地蔵と三界万霊塔になびく薄すすき

・ 亡骸を葬ると放つ火は燃えて煙り流らふるまで見き幼きころに

・ 葬りの煙恐れし我は夜の尿いばりに起きがてにせり幼日あはれ

・ 自が手もて焼かんと兄の葬り処に火を放ちけり二十年前
 
 このような一連を読むと、斉藤茂吉『赤光』の、郷里で母を看取り、その亡骸を焼いた長い連作が思い出されたりもする。

 ・ どくだみも薊の花も焼けゐたり人葬所の天明けぬれば
                                     参考歌      斉藤茂吉『赤光』   
 
 巻末の著者紹介欄には、明治四二(1909)年新潟県巻町に生まれ大正十(1921)年出京した、とある。
 浅草に叔父が住み、その叔父のもとに身をあずけた。
 隔世の感の際だつ次のような歌がある。土手とは吉原土手のことである。
 
・ 叔父夫婦は夜なべに忙し子を守りて土手行返りせし十二の我は

・ 吉原の半玉たちと机並べ小学校を夜学に終へし我なりしかな
                                                            半玉=見習い中の芸妓

   *  *  *

・ 兵役を延期する為大学に籍は置けども学ぶなかりき

・ 中大の経済学科に席を置き一日も登校せずして遊び暮しき
 
  経済学科? しかし短歌をやるようならば国語の教員だったのか。
 歌集を中程まで読んだころ、社会科の準備室に居合わせた同僚Nさんに、もしやと思い訊ねた。
「この先生のことをお聞きになったことはありませんか」と本を示した。 
 彼では若すぎるかなとも思ったが、彼は本校の卒業生である。
「ああ鹿児島先生ですか、知ってますよ。習っていませんけれど僕の頃はまだおられましたから」
 聞いてみるものである。
「いやしかしこの略歴をみて計算すると、一体何歳まで教師をなさっていたんですか。そのころは嘱託の制度もなかったでしょうに」
「でも昔はその反対に、定年制もなかったじゃないですか。最後のほうでもちゃんとクラス担任なんかもなさっていましたから」
 明治四十二(1909)年生まれの人が昭和二十二年に教職に就き、以来三十六年間を本校に在勤したとある。私の頭では『1945年が昭和二十年で、その年敗戦の夏があった』という区切りになっている。それらを換算していくと、退職が昭和五十八(1983)年、七四歳、そんなことがあるのだろうか。

    【補記】 後に、五十周年誌の「在籍一覧表」をみると、その期間は昭和二十五~五十三年とある。いずれかに誤りがあるのか、または詳細な事情が省略されていると思われる。

「何を教えたかたですか」
「日本史を教えた先生で、私の習ったのはもう一人の日本史の先生でしたから、あいにく鹿児島先生の授業は受けていませんけれど」
「一回の異動もなしにずうっとこの学校だったみたいですね。勉強家だったようですが……」
 学生時代を詠んだ『一日も登校せずして遊び暮しき』もあるが『歌集を六冊とは立派だ』と思うのでそう聞いた。
「四階の図書室にはこの先生の書いたものがほかに何冊かありますよ」とNさんがこたえた。
 ただし、最近の消息は余りはっきりしないようだった。

 別の日、同じ部屋でTさんに、彼をご存じかどうか聞いた。
「鹿児島徳治さんですか、そう、何年になるかなあ。会ってはいませんが電話で声だけは聞いたことがあります」という。
「お元気そうでしたか」
「相当ご高齢のようですがしっかりした話しぶりでお元気そうでしたよ」
「何かご用があったのですか」
「ええ、もう一つの方の社会科準備室に彼の置いていった古文書がたくさんあって、それのことでちょっと」
「浮世絵だとか、色々の蒐集をなさる方だったようですね」
「そうみたいですね。その古文書の中に江戸時代の人別帳があってここの『紀要』に書くのにそれを使わせてもらおうと思ったものですから」

      *    *    *

 『葛飾野』を読み終えると、続いて、これもNさんが図書室の奥の書庫から捜して下さった『隅田川の今昔』という、もっと早いころの彼の著書を借り出した。でもそれを読みつつ、昨今はいかがお過ごしか気がかりであった。というのも『葛飾野』の最後の方、すなわち平成四年ごろの歌では、身体不調のさまを大分厳しく詠んでおられたからである。
 
・ 戦傷に足萎えの我年老いてまた骨折したれば今は歩けず

・ 時来れば腹すかぬ我に食べよといふ妻はしきりに食べさせんとする
 
 幸いにもこの骨折は軽傷で、手術などの大事に至らずに直すことができたようである。しかし次の歌が続く。
 
・ 二本の杖もて危うく歩くわが姿人目は如何にと思ふらむかも

・ 長路は歩き叶はず大方は車に頼る身となりにけり
 
 先生の最近の消息については、結局は直接お宅に電話した。私が電話をかけると、ご本人が受話器をお取りだった。
 私のことを名のった上で、「お元気ですか」とお尋ねすると、
「病気というものではありませんが…」とおこたえになった。
「先生は今も短歌をお詠みですか」
「いいや、もう短歌はやめています。囲碁ももうやっていません」

 思うに「お元気ですか」と尋ねられて「ハイ、ゲンキデスヨ!」と即答できる九十歳はそうあるものではない。先生が口にされた囲碁のことは歌集にもいろいろ出てくる。碁敵とのあれこれだの、碁会所の持ち主が高齢になり、とうとう店じまいになってしまったことなどが詠んであった。その好きな囲碁さえもうやめてしまわれた、と。

 ただこのやりとりも、幾分かお耳も遠く思われ、スムーズな会話ではなかった。遠慮の気持ちが働いて「お宅に訪問させていただきたい」というようなお願いも言い出せず、また九十というお歳を本当にはどのように過ごしておられるのかも詳しくはわからなかった。

 夏休みに入る頃、校長室に行った。そこにもしや『曳舟川』という歌集が保管されてはいないだろうか、と思ったからである。校長も一緒に室内を見てくれたが、それは無かった。
 ただし鹿児島先生のことをご存知だった。私が着任するほんの少し前、一月の新年会に「そうとうご高齢の様子でしたが、出席されていました」とのことである。
『なあんだ、鹿児島先生のことを知っている人は、この職場には何人もいるらしいぞ』

 先生の消息の件は、以上の経過にて納得、ということにしたい。

      *   *   *

 前にあげた「戦傷に足萎えの我」の歌は、注目される。
 巻末の『著者紹介』には、「昭和十二年応召、中支にて戦傷を受け永久服役免除」と記す。
 しかし、この歌集に戦争のことを回想した歌は意外に少ない。授業で戦争のことを生徒にどのように伝えたのかも詠まれていない。

 目についたのは巻末近くの『サンダカン八番娼館』と題する五首である。歌を詠んだのは平成四年。
 
・ 大変な労作にして傑作なりしよボルネオのサンダカン八番娼館

・ カラユキさんの言葉は知れどいまだかつてその実体を知らず生き来し

・ 貧しき人の娘を買ひ入れて喰いものとする女衒とはまさにやくざの仲間

・ 五十年の昔となれど戦地にて慰安婦のこと吾は知るなり

・ 年期奉公女工哀史もカラユキサンと異なりはすれ貧しさの故

     
【補記】 このノンフィクションを書いたのは山崎朋子。熊井啓が監督して映画にもなった。
 
 歌には、戦争の時代の都合の悪いところをどんどん忘れていこうとする近年の風潮を「じょうだんじゃないぞ」と怒っている、その勢いがあると思った。

      *   *    *

 読みすすむと、作者が関心を寄せている世界が、徐々に見えてきた。好奇心も向学心もきわめて旺盛な人のようにうかがえる。
 ひきこまれつつ、たとえば旅行にまつわるたくさんの歌を読めば、自分がその旅に誘われたような気分になってくる。
 あるとき、塩瀬の鰻頭の本家を上方に訪ねた。以下、随時抜粋。
                    
・ ゆくりなく珠光の茶室を訪ひしをり奈良の町に見し鰻頭神社

・ 鰻頭をはじめて伝へし中国の林浄因は神に祀らる

・ 末商の林宗味は利休の門人紫の塩瀬の袱紗に名を知られたり

・ 鰻頭元祖の林浄因と龍山禅師の遠忌法要に建仁寺に行く

・ 林家の裔は名を改めて塩瀬と云ふ三百余年前江戸に移りぬ
 
 そして先生は両足院の塩瀬家の墓所には沙羅の若木を寄進もされた由。歌には教師らしい癖というものが出ていて説明的であるが、上等の茶菓子を前にして、蘊蓄を語りながらお茶を楽しむ老人がひとり見えてはこないか。
 またある年は、吉例、駿河台の古書展へと出かけて思わぬ買物をすることになった。昼食に立ち寄った中華料理店のショーケースの中に目にとまるもの、それは陶器でできた人形であった。以下、連作『石湾鎮』を抜粋。
 
・ おしまづきに倚りて酒杯を手丁にしたる鬚長翁は李白なるべし
                             (おしまづき=脇息)
 歌よみの一人として、彼は、帰宅後も唐の大詩人の人形が気になる。
 そこで、どこで入手できるものなのかを中国人である店の主人に手紙で問い合わせ、横浜の中華貿易公司というところまで出かけた。
 
・ 李白の像は品切れにしていたし方なく少し大きな魯迅の像買ふ
 
 「いたしかたなく」以下、本人が大いに残念がればこそのユーモアがある。この一連にはコレクターとして苦心の様の幾首もが並ぶ。
 またほかにも、各地に旅行に打た折りに求めたさまざまな人形の置き場に苦労する歌などもある。
 人形の話が出て鹿児島の姓とくれば、連想は人形師であり歌人でもあった鹿児島寿蔵の名につながる。さらにそのあと手にした第一歌集『甲和の里、第三歌集『松風の音』を読むと、果たせるかな、その寿蔵の名が両歌集には出てくる。
 『甲和の里』の「後記」にこう述べている。
「これは私の第一歌集である。発表した歌誌はいずれもアララギ系の「真間」「潮汐」にのせたもので、主宰者、石川福之助、鹿児島寿蔵両先生の撰を経たものである。(後略)」

 第三歌集には、
 
・ 三年越し待ちたるわが師の人形を一ツ買ひ得て心は足らふ
 
 などの歌もあった。鹿児島寿蔵の人形は、テレビ番組の「開運・何でも鑑定団」あたりにもたしか出てきたような、人形の世界では知る人ぞ知る、というもののようだ。
                 
【補記】鹿児島寿蔵は1898年生、1982年没。
 
 では、『葛飾野』に戻って、後回しになった古書の話を『古書蒐集』より抜粋してみる。
 
・ 錦絵を蒐めし頃も昔にて今は熟も醒め買ふは稀なり
 
 先にふれた『隅田川の今昔』には、この、彼の集めた錦絵がさし絵としてあちらこちらに配されていて楽しい。
 
・ 初期に蒐めし近代文学の初版本数百冊は棚に眠れり
 
 実は『棚に眠れり』ばかりではない。昔その初版本の一冊を勉強の励ましにと先生に頂戴し、今もその想い出を忘れずに短歌に精進している人がいる。
 その本とは中城ふみ子『乳房喪失』。彼女は大正十一(1922)年帯広に生まれ、昭和二十九(1954)年、癌のために三十一歳の生涯を札幌で終えた。
 亡くなる直前、『短歌研究』の第一回五十首詠に第一席となり、その斬新な詠みぶりが歌壇に衝撃を与えた。「性と生の葛藤を奔放に歌いあげた作品は、戟後女流短歌の原点として今に大きな影響を及ぼす」とは現在第一線で活躍する歌人の高野公彦が中城の歌に付けた寸評である。(高野『現代の短歌』より)
 
・ もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず

・ 失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ

・ 遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受け取れ
 
 この一連五十首を含む初版本を贈られたのは、私が前々任校で同僚だった影山美智子さんという。
 彼女もすでに三年前には現役を退かれたが、都立高校の養護教諭としてのスタートをこの葛飾野高校からきり、本校には昭和四十(一九六五)年から八年間を勤めた。鹿児島先生のことをお訊ねすると、この、男性が若い女性に贈るにはいささかセンセーショナルな題名の初版本のことを話して下さった。
 影山さんも近年、充実の第三歌集『次年の花』をお出しになている。
 
         参考歌 『次年の花』より以下三首
・ 見のかぎり収穫の季のオリーブぞ大地の恵みは人の手に椀ぐ

・ 校庭の千の自転車わかものの感情のごと乱るれど光る

・ 人と人つなぐ職なり孤にこもる生徒らと教師と暗く増えつつ
 
      *   *   *

 先に、『葛飾野』には戦争のことや、ご白身の授業のことなどが余り詠まれてない、ということを書いた。
 しかしながらそのあとに読んだ第一、第三歌集ではそうではなかった。
 戦争のことでは、ご白身の戦傷のこと、我が国の軍備強化に対する思いなど、きっちりと詠まれている。
 また、学校のことでは、改めてハッとさせられるのだが、1970年をピークにした学校紛争、彼の歌集中にいう「学園騒動」も繰り返し歌い残している。
 短歌はその一面において「機会詩である」といわれる。特に鹿児島先生のような作歌の態度をもつ場合に、折り節身辺に生じたことのうちの、何に目を向け、どう言葉にすくい上げていくかばとても重い事であったろう。このあたりを詠まれたものも、両歌集より順不同でごく一部を紹介しておきたい。
 まず、学校紛争当時の歌から。
 
・ とみこうみ思ひあぐめど術をなみはやも授業のベルは鳴りたり

・ 反戦を叫ぶ生徒ら授業時を静かにをれど心燃ゆらし

・ 三年の授業ゆ戻る教師らの口揃ひいふ言葉かなしも

・ いまさらになにを言はめやひたすらになほく生きよと吾ははげます
                          (卒業生へ)
 戦争を次のように詠む。
 
・ はらからを二人失ひ此の身さへ廃老とされし戦ひ憎む

・ たびたびの戦ひの場にさらされど命のことは思ひ至らず
 
 中国の戦場でついに我が事として「右大腿骨折貫通銃創」を受け、死に直面する己であったことをまさしく思い知らされた、というのであろう。
 
・ 天皇陛下萬歳と叫び死ぬなどはでつちあげたるそらごとにして

 では、そのときの彼には何が思われたのか。

・ 撃たれ死ぬ今はの時に思ふことは父母のことふる里のこと

      *    *    *
     
 このようにしてからくも生還した。
 そのことと無関係ではない、何事に関してであれ、先生は「でつちあげたるそらごと」を歌に詠む気になどならないのであろう、と、私には思えるのである。
 歌風でいえば、おおむね歌には避けがたい虚構をも極力「虚飾」として遠ざけた様子であり、なおかつ、叙情すらみずからひたるものではないことを述べ、実際に歌柄からもその様子が伺われる。
 彼の敬愛する歌人には、筆頭は正岡子規。そして続くアララギ系の数名がいるわけだが、さらには同郷越後の良寛もいる。良寛の書や歌に心酔し、何よりもその生き方に感動している。
 
 「良寛の魅力とは何なのか」と前置きした上で彼は次のように述べる。
「……誰もそうありたい、然し一般の我々凡人はそうは行かない。つまり人は成長するに従って、社会、いや俗世界、姿婆の風に当って世の荒波に耐える様に段々と武装し甲羅を厚くして人間の本性が仮面の裏にかくされてしまい……、所謂世慣れた社会人になってしまうのが普通である。ところが良寛はそんなへぼではなかった。良寛には仮面を冠って世を渡る弱さはなかった。何時でも何処でも真の人間のままで押し通した。
……良寛万葉からも古今からも抜け出して良寛独自の歌を詠んだ。一般にその歌を良寛調などといわれているが、良寛の歌があまりにも素直でなだらかであるがために人称して良寛調などと呼んでいるが、……むしろ軽視するかのごとき含みのある評言のようにさえきこえる。然し短歌はわずか三十一文字の短い韻文である。そこに複雑な内容を盛ろうとしても所詮無理である。詩歌は韻文であるから語調も律動もないよりあった方がよい。然しそれよりも第一その表現された内容である。といってその内容が難解で理解に苦しむものなど何の価値があろうか。(後略)」 〔『良寛を考える』良寛会編・昭和五七年刊より抜粋〕
 以上のことは、良寛の偉大さをいうにとどまらず、彼の人生観であり、歌を詠む心構えであるに違いない。

    *   *   *

 歌のことは以上のようなことで止めることにして、もうひとつ思うことがあった。
 鹿児島先生在職のころ、彼のような長期間をこの学校に教鞭をとっておられた方が十名ほどもおられたようである。古き良き時代であったというべきか。また、鹿児島先生の歌を通じては、それらの先生方の、じっくりと一つ職場に腰を据えて、ある種ひたむきに自分の世界を持ち得たことの幸福を感じたのであった。
 
○ 私が読む事のできた鹿児島先生の本・刊行年
 第一歌集『甲和の里』昭和五二年
 第三歌集『松風の音』昭和五四年
 第五歌集『葛飾野』平成六年
 句歌紀行『隅田川の今昔』昭和四七年
 評論『良寛の魅力』共著『良寛を考える』中、昭和五七年
                                         1999年8月 記 
   
   
追 記

 その後、創立六十周年行事のおり、やはり本校のOB教員でおられる榮山健司先生と、初対面ながらお話しする機会をえた。そのさい、先生が鹿児島先生の著書をいろいろお持ちと伺い、それらが
お貸しいただける事となった。
 柴山先生のご好意を大切にするなら、この冬休みに書き直すべきかとも思ってはみたが、結論としては、この小論の続編にあたる文を、続く機会に書かせていただこうと思う。今回は拝借中の本のリストを記すにとどめる。
 歌集『真間の井』『老いの花束』『曳舟川』
 評伝『良寛清貧の生涯と歌』
 歌誌『真間』通算五五一号


    

           歌系は赤彦   

鹿児島徳治先生のうたを読む・後編

 
  最初に報告しなければなりません。

 鹿児島先生は昨年二月にお亡くなりになりました。生前親しくしておられた本校元教員の榮山健司先生より知らせをいただきました。先生の書き残されたものを読むにつけ、悔いなく存分にご自分の道を歩まれた方のように伺えます。ご冥福を祈ります。
 私は一昨年六月に、ただ一度電話で先生のお声を聞くことができました。「もう歌は詠みません、囲碁もやめました」とおっしゃったお声が心に残っています。

 去年より今年にかけて、鹿児島先生の歌に関して、同じく榮山先生より二度資料の提供をうけました。初めのことは昨年の稿の末尾に書きましたが、続いて、今年六月には鹿児島先生の訃報と共に、『真間の井』昭和五四年刊、『柴又の鐘』平成元年刊、『老いの花束』平成九年刊、『良寛 清貧の生涯と歌』平成五年刊、その他若干の補足資料を加えてお下げただきました。特に『柴又の鐘』は鹿児島先生の第四歌集(別途再編歌集あり)にあたり、質量ともに充実の一冊でした。『老いの花束』『曳舟川』より再編の一七九首と、前編の中心に置いた『葛飾野』以後に詠まれた(というが、多くは『葛飾野』からの選出)三六〇首からなります。これで鹿児島先生の歌集はすべて読み通すことがかなったものと思います。本稿はこの『柴又の鐘』を中心に置いて鹿児島先生の歌の紹介をしようと考えます。昨年の本校六〇周年行事のおりに初めてお目にかかって以来のご厚意にたいし、榮山先生にはあつくお礼申し上げます。
 また前任校同僚の武田明憲先生からは『良寛の手鞠と鉢の子』昭和五六年刊をいただきました。これは良寛の評伝で、歌集ではありません。

 以下、本論に入ります。

 ◇ 『柴又の鐘』・「あとがき」のこと
 
 前稿では、鹿児島先生は教職にあった全ての期間を本校一校で終えた、と書いた。しかし第五歌集『葛飾野』等でははっきりしなかった正確な在職年数も、この巻の「あとがき」には正確に書かれていた。
「晩学の小生は三十歳を越えて漸く生活も安定し、戦後の昭和二十二年より教職について三十二年間都立葛飾野高校に在職し、さらに同校で時間講師としての四年間と併せて創立以来同一校に三十六年間勤続し、七十三歳まで勤めて退職した。」
 このような勤務が、もはや我々の間にありえないことについての私の感慨は前稿の末尾にすでに記した。    
 『柴又の鐘』に収めた歌の詠まれた時期は以下の通り。
「……昭和五十四(1979)年より、六十年迄の七年間のもので、現役教諭を退職してから講師時代の四年間及び閑職の三年間に相当し、古稀を越え喜寿に至るまでの作品で収載歌数一一〇〇首、……」
 この一一〇〇首という歌数は大量で、一頁に標準六首を収め、二二〇ページをもってこの「あとがき」までを終わる。
 
 ◇ 歌風について
 
 前稿と共に副題には「歌系は赤彦」とつけた。鹿児島先生は近代短歌の主流をなしたアララギ系の歌壇にあって、その広いすそ野を支えた歌人の一人であった。正岡子規の短歌革新運動の説得力が充分に有効であった「戦後」という時代の歌人の特長が良く出ている歌が多い。
 彼は『自分の歌はあえて叙情を排し日常生活詠に徹している』のだとさえ言っている。

・ 日曜なれば神田の街の古書店は休みなりしか電話通ぜず
 
 読んで分かることば、一首としての独立性がなく、かつ和歌的な情緒によって鑑賞されることも考慮されていないということである。「通じない電話」という、期待が不安に変わる瞬間が、ある日曜日のできごととして言い残されたにとどまる。
 説明のつごうで順序を変えて引用したのだが、この歌の手前には、
 
・一夜寝し翌朝つとめて電話する子規の歌の短冊買はんと思ひて
 
 という歌がある。
 読者には、彼の持った期待(と不安)の原因が既に了解されている。了解されてしまっている、といってもよい。かなり字余りの一首であるが、あまりそういうことにもこだわらない文語調の散文が、三一昔ごとに切られ、順序よく並べられている、そういう「公開された日記」を読んでいるような感じを読者はもつ。次は後続の二首である。
 
・ 気は急くに朝より四回電話して漸く通ぜりまだ売れずあり

・ 百余万の高値に手持ちの金足らず定期を崩さんと銀行に行く
                 (以上は「子規の歌の短冊」九首中)
 
 他にも彼の多くの歌が、このように叙事的な連作として詠まれていて、それもこの歌人の歌のつくりの特徴になっている。詠むときはばらばらであったものを歌集編集にさいしあちこちから寄せてきたというのではない。一部に編集時に補充された歌が混じったか否かば別として、基本は最初から連作として構成されているのである。
 こうなると、次のような名詞の部分は、読み手にそのまま読めと言っているような感じがしてくる。「一夜寝し翌朝」「子規の歌の短冊」「四回電話」「有余万(円)」「定期・銀行」。
 歌人の個性にかかわって「子規の歌の短冊」だけはここでは動かせない。しかし他はどうなのか。語呂がよいので「四回」、庶民としては破格の買い物なので「定期の取り崩し」、というようにレトリックが用いられてはいないのか。鹿児島先生のようなアララギ系を名乗る歌人のうたでは、事実からの乖離イコール文学的弱さ、とみていた面がかなり強く、では「事実のみによって詩歌は成り立ちうるのか」というジレンマをきっと彼も抱えこまざるを得なかったはずである。
 アララギの巨人斉藤茂吉の名歌「…母に添寝のしんしんと…」は、『天に響かうカワズの鳴き声が暦(彼の母の命日)におよそ一カ月合わないが、これはなぜなのか』と、これは佐々木幸綱氏が茂吉のふる里の大石田へ講演に出かけて、土地の人から問われた実話である。佐々木は、文学である以上は写生第一のアララギの人の歌にさえ創作は避けがたいのだ、とこの話を引き取ったのであった。
 もちろんその裏面には、読み手に与えられた読みの裁量(自由度)もある、ということになろう。
 傍証として、最近私の身近にあった例をあげてみよう。
 
・ 蚕豆はふっくらとしで教え子の絵便り届く立春の朝 
                     (線引まさ   朝日歌壇・九九年三月八日)
 
 選者は先と同じく佐々木幸綱氏で、この歌へのコメントを、

 「『蚕豆はふっくらとして』までがいわゆる有心の序として働いて、『届く』を起こしている。蚕豆もふっくりとしており、絵葉書のとどき方もふっくらした感じだったのである。いかにも立春にふさわしく明るい一首」
 とした。「ふっくら」の目の行き所を、描かれた蚕豆から手紙を寄こした人との関係へと渡して見ていったなら、ずっと歌の読みがふっくらするのではないか、と。投稿者の意を離れて歌のつくりを言うなら、蚕豆は他のふっくらしたものと置き換え可能な場所にある。
 この歌が九九年度の朝日歌壇賞四首中に選ばれ、併せて今度は作者のコメントが載った。

 「去年の二月四日、厳しい寒さの中、教え子から蚕豆の絵便りが届きました。莢の中の蚕豆がふっくらとして、思わず触ってみたいような気持ちにかられました。/眺めているうちに寒さを忘れ、「春はもうすぐそこまで釆ています」と、教え子が呼びかけているようで、すらっとこの歌ができました。/いつもは四苦八苦するのに。(後略)」

 「去年の二月四日」と書き出し、歌は不動なる事実に基づくことを示唆している。佐々木氏も事実の存在を否定してコメントしているわけではないが、鑑賞の中心軸のズレがここには明らかに出ているのではなかろうか。
 わたしはいかにも綿引まささんらしいと思った。私が小学五、六年のときに担任だった人で、子どもたちへの作文教育に情熱を傾けて教職を全うされた。「現実をようく見つめ、ありのままに文章を書きなさい」と繰り返し教えた。戦前の東北に始まる「生活綴り方」の運動を戦後に受け継いだ人の一人である。恩師が私たちに繰り返し聞かせたこの「ありのまま」という言葉は、今も私の耳の奥から聞こえてくる。
 歌系というのは鹿児島先生には重かった。
 先生の歌に戻ろう
 
・ 文明先生あげつらふ本読みゆけば四ッ葉のクローバーの莱出で来ぬ

・ とにかくに文明先生の歌はよし何もかくさずずばりさはやか
                 (「四っ葉のクローバー」七首中)
 
 「生活即短歌」と言い放った土屋文明は、作者が心底尊敬していた歌人である。性格にも共通するものが感じられる。書かずもがな、私の恩師の綿引先生もしかりである。
 歌論、歌系にかかわって鹿児島先生が残した言葉を二通り挙げてみる。はじめは『真間の井(1979年刊)の「後記」中よりの抜粋である。先生が初版本のコレクターであったことを念頭に置いて読むのがよい。

「……私は今アララギ系の結社に所属しているが、不思議なことに歌人達のほとんどすペてがそうである如く、私もやはり新詩社系の歌から入ったもので晶子、白秋、啄木、牧水などを学び、それらの初版本を買い漁った。晶子の初版歌集二十余冊は今私の書棚に眠っているが、白秋や牧水の初版歌集もほとんど買い集めた。そのうち白秋歌集すべては十年程前に国府台の里見公園内に出来た白秋記念館紫烟章舎〔後述『付録』を参照されたし〕に全部寄付してしまったので今手元に無い。その中には白秋の処女歌集「邪宗門」「思ひ出」、「雀の卵」なども含まれてをり、わが初学の日の思い出もなつかしい本である。
 私が白秋本を寄贈したわけは、〔経過省略〕……同町内に住む誼みからその保存に骨を折ったことがある。草舎復旧まもなくそれを記念して私の蔵書の白秋歌集はすべて寄贈してしまったのである。私の道楽もいくらか役に立ったかなと思っている。
 次に、吉井勇の夢二措く美しい装頂の小型の初版本も永くわが書棚に眠っているが、これもすべて読んで見たが、その歌のあまりにも巧みななめらかさ、絢欄さにいささかうんざりして次に求めたのがアララギの歌であった。
 斉藤茂吉先生の「赤光」初版本を十余年前一万二千円ほどで落札したのが始まりで、今ではアララギ叢書の大部分は入手して持っている。私は今まで種々の歌集を読んで見たが、最後にたどりついたのが根岸系短歌、つまりアララギの写生主義短歌であった。
 私は彷捏の果て最後にめぐり逢ったアララギに感謝している。然しアララギに入会したのは数年前のことで、いまだに「其ノ三」の一首組で、まま二首とられるくらいで、新参者故これも致し方なしと覚悟しながら研鑽努力して励んでいる。
 今度出す「真間の井」は、私の歌集としては二冊目であるが、歌壇誌に属さない以前のわが習作時代の作品であるからこれが本当は私の第一歌集となるべきものである。歌の姿は〔自分の〕今の歌とは少し違い多分にロマン派短歌の傾向をも踏襲しているように思われる。初歩の作品でいささか恥しいものであるが、自分としては捨て難い所もあり、詠んだ歌の数はこの三倍ほどあるが自撰して大かたは捨ててしまい三石十三首の小冊子として出すことにした。」 (〔 〕および傍線は筆者、以下を含め原文に随時改行を施した)

 以下に、最初期の作品中から、後の鹿児島先生とは趣の異なる歌を少し紹介してみよう。
                     
・ 夕なぎて燈籠流す星月夜葉月はじめの土肥の浜辺に

・ 海原に火の輪はのびて中空にかすかまたたく蛍火のごと

・ 昨夜流せし燈龍ひとつ漂ひぬ帰る船路を戸田の岬に
                   「伊豆の湯浜へ」一九五九年
・ 遠ざかり近寄り見ても異らず丸き国上の山の姿は

・ 海鳴りの遠くとどろく吾が郷の春いまだしき冬の明け方
                       「望郷」一九六三年
 
 では次に、最後の歌集に彼が残した言葉はどうか。
 「わが歌系は万葉を祖述し写実を重んずる赤彦系のリアリズム短歌である。従って古今・新古今以下を信奉するロマン派短歌とは、いささか趣を異にする。
 然れども他派の歌とて佳き歌は誰にとつても佳き歌であり、進んで学び、教はるべきは教はり、見習ふべきは見習ひ、限り無き努力を重ねて来た。
 わが歌はわが生活そのままに詠まれてゐるから、わが歌を詠めばわが生活の実態、過去現在の経緯は手に取る様に明らかである。それは即ち写実主義短歌の美点でもあり又欠点でもあるかも知れない」(『老いの花束 跋』中、傍線は筆者)
 
 傍点部分は了解できるが、その手前の「然れども他派の歌とて……見習ふべきは見習ひ」のところを、鹿児島先生の歌集を読んだ上で同意できない。ここに言う「ロマン派短歌」を読んで勉強したが、「見習ふべきは見習ひ」ということをせず、きっぱりとその歌風を拒否し、染まらなかったのだとわかるからである。
 
 ◇ 残すぺきことば
 
 以下、奇遇というより、よく聞く話なのかもしれない。
 昭和の終わりに亡くなった私の父は鹿児島先生と同世代(父の方が三歳年下)であった。また同じように兵士として中国に連れてゆかれ、同じように負傷しで帰された経験を持っていた。父の場合負傷したのはソ満国境で、元気だった部隊の仲間はその後間もなく南方に移動し、ほとんどがそこで戦死した。戦後しばらくは、生き残った者がお互いの消息を訪ねて歩き、我が家にも父の戦友が何人か釆た。
「南方に行かずにすんで、あなたは本当に運がよかったんだよ」
 父は南方からからくも生きて帰れた戦友にそう言われていた。
 ただし鹿児島先生は戦地「中支」での二年目に負傷(右大腿骨折貫通銃創)して兵役から外された。
 私の父の場合は、一度は同じく「中支」、二度目の応召により赴いた先が「ソ満国境」で、職業軍人にあらざるただの輜重兵しちょうへいが外地に通算七年間もいた。二九歳での負傷(スキーを着けていて足を骨折)だった。「満州」にいた間に最初の妻に病死されている。
 二人とも、戦場に傷を負うことで命拾いをしたのである。
 しかしながら私の父が、書いたものを残すようなことはなかった。世間大方の男と同じ普通の庶民だったからである。
 鹿児島先生はこの集に、無言の庶民に代わり、戦争にまつわる歌を多数詠み、収めている。父から断片的に聞いていた話とそう大きな違いはない。
 
・ 南京虫にせせられ寝られず夜中には敵襲あるを夜毎続くる

・ 歩哨線の前に敵兵の死体ありしが犬が喰ひたるか服だけ残る

・ 攻め釆たる敵は喇叭をあひづとし払暁来れば引揚げて行く

・ 分捕りの敵の機銃の弾をもてペンダント作る兵に暇あり
 
 
・ 刀持てば試し斬りとか勇み立つ倫理観無き戦ひにして

・ 殺さねば殺さるるものと覚悟する戦ひつづくる兵といふもの
                     (「戦場回顧」二四首中)
 
 とどのつまり、泥沼化した侵略戦争の中を、徴兵を受けた兵士たちは北へ南へ引き回されたのだった。短歌とはいわず、もし父にものを書く心得があったなら何を残したのだろうか、先生が繰り返し詠んだこれらの歌からはそうも思われてくる。
 
・ 軍隊は国民を守らぬと沖縄の人はきっばり言いきりにけり

・ 憲法改正軍備うんぬん今更に何をぬかすかこの馬鹿野郎共
                       (「軍隊」四首中)

・ 戦場に死を待つ我は肯定も否定もせざりきいとも空しく
 
・ 死ぬだろうと覚悟しをれば戦場の修羅場にありて敢て怖れず

・ 撃たれたるその一瞬に倒れたり三角巾ほどき自ら手当す

・ 撃たれたるその瞬間に思ひしは兵隊はこれでお仕舞だ国に帰れる
 
・ 戦争はかっこいゝと思ふらし三島由紀夫の亜流共達
                       (「戦傷」九首中)

 なお、この「戦傷」の連作は最後の歌集『老いの花束』の冒頭の第二連目として一部改作され、一〇首の連作になっている。前の「これでお仕舞だ国に帰れる」とあるところは「これでお仕舞だと安堵の思ひ」となったが、私見では直さない方がよかったように思う。
 次は差し替えられたなかにある歌。
 
・ 隊列が止ればばたばたと土の上に熟眠したり霜の明け方
 
 ◇ ふるさとを詠
 
 鹿児島先生が東京に出たのは大正一〇年、十一歳のことであった。このことでは前回も『葛飾野』から数首を紹介したが、故郷の巻町は原発立地の可否を巡り長く争われてきた。やはり彼にもふるさとの人々がどう生きていくのかは気がかりなことであった。
 
・ 出来秋のわがふる里や鵯鳥百舌啼き雁も渡りつらむか
                    (「パイロット」八首中)
・ 裏山のつつみの蓮を手向けんと姉御は鎌もつ長靴穿きて

・ ふる里の鰯の塩辛うまければ猫の如くに骨までかじる

・ 贈り賜びたる米を開けば虫這ふを見て騒ぎ立つ妻は町人
                       (「古希」八首中)
・ 夕暮れに遊びゐし我れ祖父に呼ばれ母と今生の別れしたりき
                    (「亡母を思ふ」五首中)
・ 清らなるこの海原も原発の熱き捨湯に浸され終るか
                    (「原発と良寛」七首中)
・ 上越の新幹線に初乗りせんと妻伴ひて故郷に向ふ

・ 新幹線はいと早くして東京より二時間にして新潟に着く

・ 昔のみぎははるか彼方の海中に位置を示すと赤き旗立つ
                (「上越新幹線初乗り」二七首中)
・ 道端に並び植ゑたるタモの木のこのごろ少なくなりて淋しも

・ 呼びなれし吾がふる里のタモの木は辞書に探ればトネリコと云ふ

・ 風吹けばタモ木の種子は羽根つきて遠く近きに散りぼふあはれ

・ 秋の日は熟れて色づく柿の実をとることばせずあはれ子供ら
                 (「変りし故郷の農家」九首中)
 
  ◇ 最 後 に
 
次は、初期の『真間の井』から。

・ 梅もどき浜ぐみの群うち続く砂丘の彼方に白き波立つ
             
・ 朝倉が亡びし時の落人てふ越の浦曲の越前の浜
                   
・ 浜びとは田畑なければ雑穀を購ひ帰る魚ひさぎて

・ きかぬ子は浜にくれるとおどされしいとけなき日の思ひ出哀し
                       (「望郷」一三首中)
 
 鹿児島先生のような詠みぶりは、アララギという歌壇のなかでもひとつの偏りをもっている。うまいか下手かでいうなら、少なくとも上手のつくる歌ではないだろう。
 また、彼は自ら進んでうまい歌を詠もうとは思っていなかった。
 これを進化の系統樹に喩えて歌論として言うなら、かれの歌はひとつの袋小路に入りこんだ中にあるのかもしれない。そしてまた、彼のような歌い方をする歌人たちによってアララギの裾野は形成されていたように思う。
 このことでは、すでに歌壇の大勢がここを離れたことが各種各様に今日言われでいる。それは例えば「土屋文明が亡くなったときに『アララギ』の使命も終わったのだ」というようにひとの口に出る。
 次はそういう消息を述べて極まる。

 「『岩波現代短歌辞典』が刊行された。近・現代青年の短歌が蓄積してきた(歌ことば)が選出され、その比喩性・象徴性・歴史性が解説されている。監修の岡井隆は「狙いはつねに、この百年の短歌とは何だったのか、という問いかけにあった」と記す。もともと近代短歌は、歌ことばを拒否し、ありのままを普通の言葉で表現することから出発した。それが写生だ。だからこの辞典は、近・現代百年へのラディカルな批評であるともいえる。」(九九年十二月一九日朝日新聞「短歌を読む」加藤治郎、抜粋)

 文中に引かれた岡井隆も、この一文を書く加藤治郎も結社誌「未来」に拠る最有力歌人であり、この「未来」はアララギの血をひく。
 鹿児島先生に代表されるような歌のつくりだけでは飽きがきた、と思われたなら、この無技巧には手技かりがあったと言うペきか。しかしながら、白髪三千丈が言われる漢詩でも、次のような論は昔からあった。

 「陶淵明までの詩文は、思想的には老荘を、表現の技巧としては「拙」を尊ぶ風があった。陶淵明の帰園田居詩に「拙を守って園田に帰す」という句があるが、これは老子「大巧は拙なるが如し」の語をふまえている。その「拙」は生活の態度であるとともに、そのまま詩文の技巧にも通ずるものであった』(森三樹三郎「老子 1 荘子」講談社)

 鹿児島先生は良寛に心酔していた。それは前稿でも取り上げたことであるが、この禅宗の思想的核心部分はたいへん老荘的ではないのか。また、伝承される良寛の生き方はとりわけ老荘的である。
 せっかく引用したので、続きをもう少し。

 『ところが同じ六朝でも、第四期の南北朝に入ると、思想的な内容よりも表現の技巧に重きをおく傾向か強くなった。それは文学が、思想という異質の混じり物を除去し、その本来の形式美に徹することを意味する。また、それは何よりも形の美しさを追求する南北朝の貴族の生活態度にふさわしいものであった。』

 これを読めは、万葉から古今・新古今への成熟をば、近代短歌から現代短歌への成熟をば、
ともに重ねて連想するのが
当然である。
 いま私の手元にある歌集数冊は、その個性において誰が読んでも「鹿児島徳治」である。また子規にはじまる短歌刷新の流れを、全力で受け止めよう、という決意を貫いて歌を詠み継ぎ、右顧左眄うこさべんをなさなかった、そういう市井の歌人がこんな身近にもいたのだという証明である。それを一年余の折節に飽くことなく読んできて愉快であった。

 もう一人、先生や父とよく似た体験を持つ歌人を紹介し、筆を置こうと思う。
 最近、広島の宇品波止場公園に近藤芳美氏の歌碑ができた。彼も兵役につき「中支」にて戦病兵となって後方に返された過去を持つ。、なおかつ入院している彼の耳には何の知らせも来ないままに、戦友は部隊まるごと南方に渡り、戦後の種々のたよりではその殆どが死んだ。
 
 歌碑には次のように刻まれでいる。
 
・ 陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に兵ら発ちにき記憶をば継げ
 
                                             本稿は以上 
先頭 に戻ります
 
ページの内容が入ります。